じざかなかまの声

船越漁協の漁師

藤野 一豊さん

地魚BANKの馬淵くんは、魚のことをなんでも熱心に聞いて来てね。なんか気が合ったちゃろうね。いつの間にか付き合いが始まった感じやねえ。その馬淵くんが地魚BANKで漁師のためにいろいろチャレンジするっていうけん、俺も手伝っちゃらなと思ったんよね。今では日本一の魚屋さんがあると聞いては東京まで行ったり、美味しい地魚料理で世界中からお客ば集めとると聞いてはスペインまで一緒に行ったり、まぁ楽しく活動しとるよ(笑)

漁は面白いよ。魚が取れたらお金になるし。また行こうかなってなる。

取れんかったらいっちょん面白くないよ。逆にえらい魚が取れたのに、安くしか売れんときは、がっかり来る。そんなんが続いたら、もうやめようかなってなるね。うちの4人の子どもは、俺が取った魚しか食べんとよ。いい魚は食べてみらな分からんけんね。自分も、父ちゃん母ちゃんが取った魚を、季節季節で食べよった。秋ならカマスとか。1番うまい旬のやつ。でも、今は、直売所を見よったら魚の質と言うより、安い魚から売れていく。

俺は漁師やからね。

これまで目の前の海で、どんだけいい魚を取るかってことしか考えてこんかった。魚が売れれば、その後のことを考えたこともなかった。ただ、ほんとにいい魚は、まともな価格で買ってもらいたいと思う。自分の取った、うまいという自信のある魚より、安い値段の魚が売れていくのを見ると、そう感じるよね。

俺は船越の漁師の家に生まれたんよ。今、53歳やけど、昔ならじいちゃん漁師やね(笑)。俺が子どものときに、70代で船に乗りよったとは、1人くらいしかおらんかったもん。子どものころに見た漁師の世界は、羽振りがいいとか全然なくて、生活のために家族みんなでやりよった感じ。父ちゃんだけじゃなく、母ちゃんも船に乗っとった。俺は学校から帰ったら、船が港に戻ってくるまでの間に、イワシばミンチにして、養殖鯛にエサをやる仕事ばして。ついでに、寄ってきたボラを取って魚屋に売って、小遣い稼ぎもしよった。面白かったよ。

父ちゃんたちの船は、4トンか5トンくらいのちっちゃい船。キス漁ばしよった。当時は、魚も高こう売れよったけんね。だから、迷うことなく漁師になった。俺たちの年代は、みんなそんな感じ。どっか外に出て、違う道に行こうとか思わんかった。同級生も仲がいいし、船越は居心地が良かったっちゃろうね。船に乗って漁の手伝いを始めたのは、小学6年くらいやなかったかな。母ちゃんに海に連れて行かれたんよ。夏休みとか、日曜なんかは、朝6時か5時ごろ家出て、夜8時くらいに帰って来とった。相島くらいまで行きよったよ。

漁は誰も教えてくれん。俺は親父とか、他の漁師のやり方を見ながら覚えた。今はちょっと仕事を手伝ったら「給料」をもらえるみたいな感じやけど、俺たちは、手伝いで、お金はもらったことはない。家族の手伝い、人の手伝いをしながら、漁のことを教えてもらって、覚えていった。

今、糸島の鯛の水揚げは日本一よね。

鯛は、地のもんが美味しいとよ。身がプリッとしてね。沖で取れたのじゃなくて、瀬で取った鯛がいい。岩場の下辺りに、タコやカニ、エビとか、鯛の餌がいっぱいおるからね。瀬におる鯛がすごくうまい。潮の具合もあるけど、漁場に鯛が出てくる時間帯とか条件があってね。これは、経験でしかわからんよ。ただ、岩場の漁は網が破れやすいけん、ほかの漁師は嫌がって沖に行くんよね。

俺は、網が破れんようするにはどうすべきかとか、いつの時間帯やったらいい魚が来るかいな、とかいろいろ考えて、瀬で漁をやるようになった。なんでかって? そら、瀬で取った鯛は市場でも高こう売れるけんよ。沖で取った鯛より、倍くらいの値段がつくもんね。昔に比べて、鯛の水揚げは増えたけど、ほかの魚の水揚げは減りようね​。

キスは昔えらい取れよって、それで生活できたけど、今はダメ。やけん、みんな鯛を取り始めたんよね。昔、秋と言えばカマスやったけど、今は売れんけん、カマス漁はなくなった。干物にせんと売れんけど、干物業者がおらんくなったけんね。カナギもよう取れよった。カナギがおるときは、スズキとかウシノシタとか、いろいろ網に入りよった。カナギを食べた鯛とかスズキ、ヒラメとか、ほんとうまかったんよ。それがおらんくなった。どうも、水温が上がったのが理由みたいやね。

 

昔、サワラは釣るのが難しかったんやけど、最近はみんなが漁の技術を上げて、取れるようになったんよ。ちょうどイカかご漁の時期とサワラ漁の時期が同じやけんね。サワラに流れる漁師がどんどん増えとるよね。俺は弟と一緒に、まだイカかご漁を続けとる。船越は伝統的に、イカの資源を守るための漁をしとうとよ。仕掛けに使うかごには、誘い込む穴のところにイカが卵を産み付けやすいイヌツゲって木の枝をつけとくんよね。俺たちは、漁が終わった後、イカの卵が孵化するように、そのイヌツゲを海中に投げ込んでおくんよ。ほかの地域だと、人工芝を使って、毎年同じものを繰り返し使うやり方のところもある。それやると、産み付けられた卵は海に戻せない。年々、イカ資源が減るだけよね。

 

正直、イヌツゲを刈って来て、かごにくくりつける作業は、結構大変。

でも、次の年にイカが取れんかったらいかんけん、その手間はかける。そのイカかごに、えらいいっぱいゴミが入るとよ。レジ袋とかペットボトルとか。港まで持って帰る。俺はゴミを取りに行ったとかって思うくらい入るね。かごに入ったゴミば海に捨てる漁師もおる。俺は、それ見たら怒るとよ。「捨てんな!」って。漁師は海で商売しよるとにね。

昔いっぱい取れた魚も減ってきたし、ゴミも増えたし、地球温暖化の影響もすごく感じる。最近は毒があるガンガゼがえらい増えとう。魚が売れんと漁師は生活できんけんね、これからの漁師は、いろんな変化に対応していかないかんと思う。馬淵くんは、そんなことも全部ひっくるめて知ろうとしようけん、信頼できるね。

 

株式会社やますえ

馬場 孝志 社長

「故郷糸島産の価値を上げていきたい」

私は糸島市出身です。生まれ育った糸島が大好きだから、糸島を盛り上げたくて仕方ありません。そして、この素晴らしき「糸島」の価値は、もっと上げることができると思っているんです。

 

例えば、糸島市は、天然真鯛の水揚げ量日本一ですよね。この誇るべき素晴らしい実績が全国の人たちに認知されていないことが歯がゆくて。糸島の「鯛」の認知度と価値をもっと高めて、全国の人たちに「糸島の天然真鯛じゃないとイヤだ!」って言われるようにしたいんですよね。

 

やますえは明太子がメインの会社ですが、糸島の港で水揚げされた鯛の商品も数多くとりそえて、「糸島の天然真鯛」をPRしています。ただ、糸島の鯛をPRするには、自らが漁業現場や魚のことをよく知らないといけないと思ってまして。

だから、私は今、産直市場の「福ふくの里」に頼み込んで、魚をさばく調理場に立たせてもらっています。いつが美味しいのかとか、旬も勉強したいので。漁船にも乗せてもらって、漁師見習いのような体験もしています。

こんなふうに、糸島の生産者とつながり、「糸島産の価値を上げたい」って言ってるときに、地魚BANKの馬淵さんと出会いましてね。同じ志を持った人間がいて、うれしくなりました。私より若いのに、真っ直ぐな思いが、正直にすごいなって思って。一緒に糸島の地魚を盛り上げられたらと、地魚BANKの活動に参加したんです。私も糸島のために、もっと、もっと働きたいなと思って。

私は働くのがすごく好きなんですよね。中学生の時から新聞配達とかやって、自分の小遣いは自分で稼ぐような子どもでした。社会人になっても、瓦職人とか、運送業とか、いろいろ経験しましたね。東京、沖縄、博多と、長い間故郷を離れて、あちこちで仕事してきましたよ。トレーラー運転手をしている時、魚卵を輸入する会社を立ち上げていた、やますえの山口末太郎会長と出会いまして。営業として誘われてたんです。

当時のやますえは、ノルウェーのサバとか北海道のサンマとかを大量に仕入れて販売する問屋業の会社でした。ネットワークがあって、信頼できる仲間から情報が入るんですよ。「馬場くん、どうする? すごく脂が乗ってて、最高のサンマが揚がったよ」とかって。

「じゃ、1000万円分買っとって」という感じで買い上げて、現地で冷凍して、後々相場が上がるタイミングで売るーっていう金額の太い仕事をしてたんです。それで、利益を出していたんです。

でもね、疲れるんです。本当に疲れて。これは長生きできないなって。先物ですから、怖いんですよ。1億とか2億とかの入札ですから、当たれば大きな利益を出せますが、相場を外したら大損です。今は、私も元気で気力体力あるから負けない自信はありますが、もうね、そんなハイリスク・ハイリターンの仕事じゃなくって、地に足をつけたローカル重視の仕事にシフトしたいなって。

今のやますえの本社は2013年、私が経営を継ぐことになったのを機に、福岡市から、糸島市に移しました。糸島って、すごく人がいいんです。みんな「誰かのために」というのが、すごくあって。あったかいんですよ。いろいろとお世話してくださる方々も多くて、それに対する恩返しという気持ちもあって、糸島が拠点の​「地域商社」になろう、と思ったんです。

今、地域の産品の価値を高めるような、いくつかのチャレンジを始めているところです。新しくスタートしたのが産直事業です。本社の隣接地に加工場を作って、糸島で揚がった地魚を一次加工してホテルや飲食店さんに卸す仕事とか、地元の旬の野菜や魚介類を買い手のところまで届ける配送型の産直市場とか。もう着手しています。

糸島食材の価値を分かってくれる地元や、全国各地のホテル、レストラン、シェフ、小売店の方たちとつながって、大型スーパーとか買い手側が「○○○円なら並べてあげるよ」みたいに値段を決めるのを変えたいんですよ。産地側、売り手側がまっとうな値段をつけて流通させられる世の中にしたいんです。

 

馬淵さんの活動も、やますえの考えと同じだと思うんです。地魚BANKとコラボすることで、これからの糸島が、どう盛り上がっていくのか。楽しみで仕方ありません。

 

姫島漁師の嫁

吉村 康子さん 

(志摩の海鮮丼屋スタッフ)

前原で生まれ育ったのに、正直、糸島に「姫島」っていう島があることさえ知りませんでした。

そんな私が、姫島の漁師の嫁になるなんて・・・。

 

夫と知り合ったのは21歳の時。結婚して島に渡った当初は、まったくの別世界にいるみたいでした。漁村は、みんなが親戚みたいな感じです。同じ名字が多いから、下の名前で呼び合ってるんです。大きな家族みたい。姫島は、仕事といえばほとんど漁師か漁協職員、あとは渡船でしょうか。すごく密なコミュニティーだけど、居心地が良くて、どの家でも長男は家の漁を継いでいます。年に1回、姫島大文化祭っていう行事があります。私の子どもたちが小学生の頃は、島の歴史を伝える劇をやっていたんですよ。昔ブリがいっぱい獲れていたこと、獲れたブリの売上げで中学校が建ったこと、台風で家が崩れて、亡くなった人がいたこと等を伝えていました。最近は子どもの数が減って、劇もできなくなったんですけどね。島ではみんなが、うちの子を自分の子どものように叱ってくれたし、見ていてくれていたから、すごく子育てしやすかったですよ。

 

漁師に嫁いだんですから、漁船にも乗っていました。夫と一緒に10年ぐらいですね。一双吾智網、ヒラメの刺網漁、延縄漁とかやっていました。初めはかなり船酔いしました。中々慣れなかったです。漁師の仕事は、海の仕事のほかに網捌きとか、餌掛けとか、陸の仕事もいろいろあります。もちろん、家事もありました。子どもは3人いますが、1番下の娘が1歳になるかならんかっていう子育ての時期でしたから。結構しんどかったですね。水産高校に行った息子が島に戻って来て、私は船から下りました。陸に上がって数年後、志摩の海鮮丼屋がオープンし、縁あってオープンからスタッフとして関わっています。馬淵社長を見ていると、漁師との太い絆ができているように思います。なかなか、漁師が買い手側と信頼関係を作っていくっていうのは、簡単ではないですよ。私が漁師でしたからわかります。

 

漁師の立場から見ると、馬淵社長の魚の買い方は信頼されると思うんです。「値段を下げて」とか絶対言いませんから。

値切らないことが漁業関係者みんなに伝わっているから、とっておきの魚が獲れた時、漁師さんが「8キロのヒラスが入ったっちゃけど、海鮮丼にどうかいな」とか言いに来てくれるんです。私自身が漁に出ていたから分かるけど、いい魚が揚がったとき、その価値をちゃんとわかって、買い上げて、大事にしてもらえるというのは、本当にありがたいことなんです。

志摩の海鮮丼屋にいると、漁師と馬淵社長が、互いを大事にしあっているのが見えます。漁師と買い手という両方の立場がわかる私は、すごく嬉しいです。正直な話、漁師だったころは、取った魚は、ただ売れればいいって思ってたんですよ。志摩の海鮮丼屋で働くようになってから、どんな風にお客さんが買われるかも見えるようになって。考え方が、がらりと変わりました。漁師も魚の価値を上げるための工夫が必要だってことに、気づいたんです。例えば、魚の鮮度を保つために、「朝絞めしたらいいよ!」って漁師さんに言うようになりました。姫島は、夜中の1時や2時の運搬船で運んでくるから、なかなか朝絞めってできないんですけどね。とっておきの魚は、なんとか工夫して価値を上げることも大切だ、と漁師さんに伝えています。

地魚BANKは、そんな売り手と買い手をつなぐ活動。お互いの暮らしやニーズを見えやすくして、地魚の価値を一緒に高めていこうという取り組みです。小さなことかもしれないけど、私自身、漁師として魚を売る立場から、海鮮丼屋で魚を食べていただくお客さまと顔を合わせるようになって、すごく実感したことがあります。食べ終わって、食器を返却してもらう時、「美味しかったです!」とか、「また来ます」って言っていただくことが、本当に嬉しいんです!漁師のときは、売るまでしか考えなかったけど、食べてくれる人たちとの「つながり」って、本当に力になります。

 

私は今、地魚BANKの加工所「地魚ラボ」も手伝っていて、サゴシのみりん干しとか、姫島に伝わる地魚料理のレシピを教えたりしています。あと姫島の定置網にかかる小魚で黒ムツという美味しい魚が居るのですが、中々知られて無くて直売所では売れ残ったりしています。この黒ムツを使ったアンチョビ作りにも挑戦しています。今後、地魚BANKの取り組みから、食べる側の人の関心が、地魚のこと、地域のことにも広がり、私の住む姫島にも遊びに来てもらえるようになったらいいなあ、と思っています。

 

糸島漁協課長

鹿毛 俊作さん

馬淵くんとは、糸島食材をPRする食の催事なんかで一緒になってから、えらい気が合ってね。漁協にはない発想も出てきて面白いし、熱い男やけん、今じゃすっかり飲み仲間やね。

 

漁協に勤めていて意外やろうけど、小学校の間は、住宅地育ちで、前原小学校で、海で釣りもしたことなかった。人を笑わせるのが好きでね。糸島高校を卒業した後は、本気でお笑い芸人になろうと思とった。そしたらさ、コンビを組もうって約束していた同級生が、いつの間にか別の進路を決めててね。「まじか!」って、話よ。1人で芸人の道に進む勇気もなくてね。芸人になるつもりで就職活動もしてなかったけん、新卒を募集していたのが漁協か、農協しか残ってない。漁師は夢を追うて、豪快なイメージでいいなと思ってね。当時の漁協の船越支所に就職したっていう感じやね。

昔、船越は一大養殖基地やった。天然の真鯛の赤ちゃんを種苗って言うっちゃけど、『稚子ひき』っていう漁が成り立っとってね。稚魚を1匹100円とか150円とかで売りよった。それで家を建てた人とか、いっぱいおったとよ。当時は、養殖するのに天然の赤ちゃんを獲ってくるしかなくて。天然種苗の鯛はね、1キロの鯛を育てるまでに3年、4年はかかるっちゃんね。今の人工種苗の鯛は、たった1年ででかくなる。効率的には人工の方が早く出荷できるけん、いいっちゃろうけど、天然種苗の方がじわーっと育った分、うまかとよ。当時はバブルの前やけん、天然種苗の方が値段が高くても、よう売れよったよね。今は、魚100箱とって50万円くらいにしかならんけど、俺が漁協に入ったころは100箱取ったら100万になりよった。魚価が高かったけん。すごい商売やね、と思った。港もすごい活気があった。船が沈むくらい魚が獲れた時って、漁師さんたちの機嫌が良くてね。親戚中がばっと30人くらい集まって、みんなで水揚げされた魚を箱詰めばする。みんなニコニコしててね、何とも言えんかったね。あの光景が忘れられんね。

漁協って、朝から晩までそこの地域から出ることないけんね、よそもんの俺が船越の大きな家族みたいな中に取り込まれてね。若い頃は毎日のように、よう漁師さんから怒られよったけど、そんなことは全部おばちゃんたちが知っとるとよ。

「鹿毛くん、大丈夫よ、あれは怒りようとじゃないっちゃけん。ご飯食べたね? 食べていきー」って言って、励ましたりしてくれてね。おばちゃんたちのフォローで助けられとったねえ。俺が漁協に入って何年かしてバブルが弾けてね。状況がみるみる悪くなっていったね。まず、魚が真っ当な値段で売れんくなった。魚群探知機とか漁船はどんどん進化しとるとに、魚は獲れば獲るほど安くなる。漁師さんは獲らんと生活を維持できんけど、魚も減ってきたし、そもそも魚を料理する人も減ってきた。日本人が魚を食べんごとなったけんね。昔は、いい魚なら高くても欲しいっていう料亭があったけん、仲買人も高値で買いよった。今は、仲買人が「○○○円やったら○箱買うよ」という感じで、値段を決めるから、どっちかっていうと買い受ける側の方が強い。漁師は、その言い値で売らないといかんくなっとう。

 

昔は、黙っとっても何もせんでも、鯛がボンボン高い値段で売れよったけん、その良かった時の考えしか持たん漁師さんは、何も対策ばとらんで廃業していくんよ。経費とか考えんで、どんどん言い値で安く売って、赤字になってしまうけんね。そんな状況やけん、糸島漁協として、どうやって地元の魚の価値を上げていくかってことを考えよる。加工品にして価値をあげるとか、そこがすごく大事だと思っとる。

 

海に囲まれた島国の日本は、元々は肉より魚を食べて生きてきたと思うんよね。海沿いなんかはね。だから、わざわざ魚食普及とか言わんでもいいっちゃろうけどね。俺は、漁業のいい時も、悪い時も見とるけん。こっからどうかせないかんって思ってね。地魚BANKの馬淵くんたちと動いとる。

正直、昔はね、漁協の仕事は、漁師がとってきた魚を、安かろうが、高かろうが、ただ市場に出せばいいとしか考えてなかった。あとは養殖のための餌づくりとかしとけばいいっちゃろうってね。それがね。福岡県庁の水産担当職員で、「豊前海 一粒牡蠣」のブランドを立ち上げた佐藤さんに出会ってね。「今のまんまじゃだめだよ。付加価値を上げなきゃ」って言われて、ハッとしたとよ。糸島産の付加価値を上げるって考えが、それまでなかったから。地元の魚の価値について「なんかできることないかいな」って目を向けるようになってから、消費者って言われる立場の街の人の中にも飛び込もうってことになってね。福岡市内での催事にも積極的に出るようになって。イベントのために加工品も作って、糸島産の水産物をPRするようになったんよ。

 

「魚価を何とかする」なんてのは、自分たち漁協職員にできることじゃないって思いよったけど、食べる側の人たちとつながって働きかけることで、何かが起こせるんじゃないかってことに気付いてね。その思いの部分が、馬淵くんたちと一致して、タッグを組むことになった。地魚BANKの取り組みは、漁協だけではできないことが、できると思ってる。

 

例えば、漁協や漁師がいくら頑張って残そうと思った漁でも、魚が減ったり、売れなかったりして、続けられないこともある。船越漁港のイリコ漁もそう。買い物客からすると、「あれ、船越の煮干しが店頭にない。品切れかな」という程度に見えるだろうけどね。その裏側では、イリコ漁の漁船が手放され、加工場が閉鎖されている。もう1度再開するには、億単位の資金がかかるから、かなり難しいという状況があったりするわけ。船越の煮干しは人気があったっちゃけど、もう食えんのよ。そんな消費者側には見えない部分を、地魚BANKの活動で少しでも知ってもらって、豊かな暮らしってものをみんなで支え合っていけたらいいなと思うよね。

 

本当は、地魚BANKのように、漁業現場の状況を消費者に知ってもらうってことは、漁協がするべきことなんかもしれん。ただ現状は、待ったなし。地域で当たり前に伝わってきた伝統が、どんどん途絶えようとしている。だから、「漁業現場のことは漁協がやる」とかこだわらず、地魚BANKのような取り組みで、漁師さんたちの現状に目を向けてくれる人を増やすことが大事やろうと思う。
 

 

エビ漕ぎ漁を受け継ぐ漁師

古川 剛誠さん

うちは代々、加布里漁港の漁師です。加布里は牡蠣やハマグリが有名ですが、うちもハマグリとエビ漕ぎ漁を両親と自分の3人でやって生活してます。

 

エビ漕ぎ漁っていうのは、網で海底をひいて、エビや魚をとる漁。昔から続く漁で、子どものころ見ていた加布里港は、エビ漕ぎ船でびっしりでした。40隻くらいあったかな。それが、今は4隻くらい。いつの間にか、すっかり減りましたね。自分以外は、60代、70代の漁師さんがやっています。

 

地魚BANKの馬淵さんは、漁の現場を知りたいということで加布里漁港にもけっこう通われていて。うちの母とも知り合いで、そこからのご縁です。「漁業者が損する仕組みを変えたい」と言われたのが印象的でした。

 

確かに漁の仕事は、昔より条件が厳しくなっています。まず、魚価。父の全盛期と比べると、10分の1とか5分の1とか…。「買い叩かれる」っていわれる状況ですね。

 

あと、海の環境も良くはなってない。原因はよく分からないけど、グミっていうナマコの仲間が海底に大量発生することがあるんですよ。ゴミもけっこう流れてきてたり、網を入れても仕事にならない状況がエリアによっては起きてます。とれる魚の型も小さくなってますしね。

それを知りつつ29歳のときに漁を手伝い始めたんだけど、なんで継ぐつもりになったのかって、たまに聞かれますね。たぶんあるのは、父親やじいちゃんたちのこと、心のどこかで「かっこいいな」と思って育ったからかな…。

小学生のころは学校から帰ると、港にすぐ行ってました。ちょうどその時間帯に両親たちが船に乗って、沖に出ていたので。いつも、姉やばあちゃんと見送っていたのを覚えています。家族は、お金を借りて新しい漁船を作ったので、ものすごく働いていた。それを子どもながらに感じていましたね。

 

父は昔気質で、子どもから見ると怖い人。遊んでもらった記憶はありません。家族旅行もしてないな。継いでほしいとか一度も言われたことないし、継いだ今も嬉しそうな顔は特にしてないけど、たぶん、家業が残ることは喜んでると思います笑。

 

実は、中学生のころに一度「漁師してみよっかな」って冗談半分で言ってみて、母から「しても大変やし…」って反対されたことがあったんです。自分もそんなに真剣じゃなかったから、そのあとは普通に高校行って、名古屋の会社で就職したんですけど、今思うと、外の世界を見てきた経験はすごく良かった。初めての1人暮らし、初めての“脱地元“。そこで出会った人と旅行したり、仕事したり、すごく楽しかったですね。

そんな中で、働きながら海外で暮らせる「ワーキングホリデー」という制度があることを聞いたんですね。で、25歳のときから2年間、オーストラリアで暮らしました。現地では、日本食の配達とか農業の手伝いとか、いろいろな仕事をしてみたんですけど、同時に日本の良さも再確認する機会になりました。

 

ビザの関係で帰国したんですけど、加布里に戻った理由の一つは、自由な仕事っていいなというのがありました。父親たちを見ていて、誰かに雇われるんじゃない働き方、自分たちで仕事していけるっていうのはいいな、という感覚があったんです。それに今、父は70歳過ぎてるから、漁を教えてもらうには今しかないってこともあった。ほかの会社への就職は先でもどうにかなるけど、父に教わって技術を身につけるタイミングは延ばせないなって…。それで、決心しました。

 

漁の世界に踏み込んで、見えるものが広がったとは感じています。小さいころから食べてたハマグリとか、実は日本在来種で高級なものだって、以前はまったく知らなかった。東京の友だちから、向こうのレストランかどこかで糸島産の牡蠣が1粒900円で出てたとか聞いたり。育っただけでは気づけなかった地元にあるものの価値を、今あらためて勉強させてもらってる感じです。

 

現実問題、漁で本当に稼げなくなったら、自分ももちろん、ほかの仕事をやるでしょうね。先のことは分からない。ただ、今のところエビ漕ぎ漁は、生活できるレベルでの収入は安定させられます。釣りと違って網なんで、1回漁に出れば何かしら入るから。

 

加布里のエビ漕ぎ漁では最年少なので、ほかの若手や地魚BANKの方々ともつながりながら、自分たちが地元の漁を引っ張っていく世代になれるよう頑張っていこうと思います。

 

コメ、ムギ、大豆中心の農業を営む

株式会社「百笑屋」代表取締役

松﨑 治久さん

糸島市の二丈地区で、代々専業農家をしています。今は、家族と従業員合わせて11人。米23ヘクタール、大豆7ヘクタール、麦50ヘクタールを耕作しています。

 

地魚BANKの馬淵さんとは、もう10年以上の付き合い。うちがお世話になっていた九州大学大学院農学研究院の佐藤剛史先生が、元教え子の馬淵さんを紹介してくれたのがきっかけで。当時はまだ「志摩の海鮮丼屋」を始める前で、農業コンサルタントの仕事をされていましたね。

 

最初の印象は、「今までの人生で、あまり出会わなかったタイプだな」という感じ。なんていうか、成績優秀、高学歴…笑。ただ、面白かったのが、僕たちの世界の意外なところに食いついてきたところでした。例えば、うちは近所の農家さんが使わなくなったトラクターを日本酒2升で譲り受けたりするんですが、そういう“物々交換”の世界が新鮮だったみたいで。「農業コンサルで学んできたことが、なんも役に立たん!」って言っていた記憶があります。

 

確かに、机の上で億単位の事業計算をする農業コンサルタントの仕事と、実際に汗かいて田畑を耕す仕事とは、全く違うでしょうね。馬淵さんは“後者“に魅力を感じたのか、その後、前職を辞めて糸島に来られて。一緒にいろいろ挑戦しましたよ。中でも、うちの農場で年1回開いている「糸島ビアファーム」。広大な農の風景の中、収穫した枝豆をその場でゆがいて食べてもらうイベントで、毎年来てくれる方も多くて。

 

僕はそれまで、いい農作物を作ること以外ほとんど頭を使ってなかったですけど、佐藤先生や馬淵さんたちを通じて、「外の人たち」と直接交流する機会をいただけて、「農地に来てもらってファンになっていただく方法もあるんだな」って気付かされたことは、すごくありがたかったです。

 

ほかにも、馬淵さんたちとやってきた仕事からは、一般的な農家では思い付かないような「外の人から見た感覚」を学ばせてもらっています。例えば、枝豆。収穫がほぼ終わった畑には、小さめのさやが割と残ってるんです。それをわざわざ取って何かに使うことはしてなかったんだけど、実は、中身は普通においしくて。

 

それを知った馬淵さんが、こう言ったんです。「ちぎってゆでてくれたら、うちが買い取るけん。ジェラートにするって選択肢がある」って。実際、枝豆ジェラートは糸島市の「ロイターマーケット」さんに商品化していただいて、飛行機の機内誌でも取り上げられたんですよ。上手いな、僕もセンスを磨いていきたいなってハッとさせられましたね。

今、時代の変化をすごく感じています。僕の感覚では、ここ20、30年で、物価って上がってきたと思うんですね。例えば、軽自動車は100万円前後だったのが150万円になった感じ。缶コーヒー1本でも値段が上がってるでしょ。けど、実は、お米の値段ってキープなんですよ。トラクターもコンバインもグンと値上がりしたんだけど、お米の価格が据え置きだから、そりゃ今のままの価格帯だと作り続けられないよなって思います。

 

だったらどうするか。商品の価値を高めて、作り続けられる価格で食べていただくしかない。そのためにどんな価値をプラスしていこうかなって考えたところ、一つイメージが湧いてきたんです。「豊かな地域資源、豊かな農業がずっと続いていくために役立つ米作り」という価値です。

 

キーワードは「循環」。うちは、近所の畜産農家さんから家畜の糞尿をいただいて、田畑にまく堆肥を作っています。米農家が堆肥舎を持つのは珍しいんですけど、畜産農家さんもすごく忙しいから、うちがまく堆肥作りまでお願いすることはできないなと思ってですね。堆肥がほしいなら自分で作ろうと考えたわけです。

畜産農家さんと関わらせていただくうちに、「糞尿の処理が負担になるから家畜の頭数を制限せざるを得ない」って現実があることも知りました。だったら、もし糞尿の堆肥化を外注できる仕組みがあれば、畜産農家の方も安心して取り組めるだろうな、そのためにも自分が堆肥会社を作れたらいいんじゃないかな、って思ってます。

 

地域の畜産農家から請け負った糞尿を、堆肥会社が堆肥化して田畑にまき、その田畑で育った飼料で家畜が育つ…。そんな循環を作れたら、地域の農業は支え合っていけるんじゃないかな。そんな仕組みで作られた商品だとPRできたら、価値を感じて適正価格で買ってくださる方が増えるかもしれないし、農の現状に目を向けてくれる人も増えるかもしれない…。そう思うから、堆肥会社を作る夢はぜひ実現したいです。

 

今、糸島に移り住む人も増えているようですが、「光が当たり出すまでに頑張ってきた人たちがおるとばい」ってところは無視してほしくないですね。きれいな自然も、癒されると言われる農の風景も、人の手が入っていてこそ。そこがなくなるとこの豊かな糸島は続きませんよってところは、“地べた“で生きる自分たちが感じている危機感ですね。

 

僕たちが目指すものも、地魚BANKと同じ。おいしい農作物を食べて、美しい風景に癒されて幸せを感じていただいてる方たちには、できるところから、その美しい自然、地域の農業がずっと続くためのアクションを一緒にやってもらえたらありがたいな、と思います。

 

料理研究家

佐藤 彰子さん

馬淵さんと出会ったのは、1、2年前かな。福岡市・天神のホールで、糸島の天然真鯛をPRする大きなイベントでご一緒したことがきっかけでした。料理研究家として2016年から独立してやっていますが、1人でやる仕事が多い中、地魚BANKとのつながりは「仲間でやる仕事」って感じで、ほんといいご縁をいただいたなって思っています。

 

実は、私の祖父は、糸島市・姫島の漁師なんです。一緒に暮らしてきたわけじゃなかったけど、29歳のとき、漁師をしていた祖父が病気療養することになったので、お世話のため姫島に行くことになりました。亡くなる間際まで、塩ワカメを作ったり、ウニやアワビとか潜り中心の漁一筋で生きた祖父。その姿をじっくり見ながら一緒に過ごせたのは、振り返ると、本当に貴重な時間でしたね。

 

20代のときって、分かってるようで分かってなかったんですよ。「漁師の孫」という環境のありがたさを。だけど、一緒に姫島で過ごした間、おじいちゃんが釣ってきた魚を、おばあちゃんと3人で料理して食べる経験をして、なんて贅沢な時間なんだろう…って胸に染み入るような感情が湧いたんです。目の前にきれいな海があり、漁の技、料理する腕が合わさって、おいしい食卓ができるという豊かさ。食材や料理の向こう側が見えることで、その感動って大きくなりますね。

 

よく「なんで料理研究家になったんですか?」って聞かれるんですけど、ひとことで言えば、食べることが大好きだったから。子どもの頃の夢は、メロン農家の嫁。高級ってイメージだったから…かな笑。

 

大学では栄養学を学んだんですが、そのころ通っていた料理教室で「料理研究家」という仕事があることを初めて知りました。「私がやりたいのはこれだ!」とピンと来て、その料理教室の先生に、弟子入り志願したんですよ。こう見えてけっこう私、情熱家なんです!笑

料理教室のアシスタントとして、テレビ局の仕事もさせていただきました。師匠は魚料理ができる人を1人でも増やしたいと活動している方なので、あるとき、テレビ局の社員さんと、こんな話をしていたんです。「魚を食べる人って減ってるけど、もっと食べてほしいよね。切り身を買うのもいいけど、家で新鮮な魚をさばけたら楽しいし、自信もつくし、いいよね」って。

 

でも、料理の師匠が「魚さばくのは簡単だよ!」って言っても、なかなか普通の人は共感しづらい。そこで生まれたアイデアが、当時20代だった私と、もう1人の女性アシスタントさんの2人でつくる“お魚ユニット“でした。「私もやってみようかな」「私でも魚さばけそう!」って思ってもらえるような見せ方をしようって作戦。それが、がっつり魚と向き合う最初のきっかけでしたね。

 

単に「食べることが好き」から飛び込んだ世界でしたけど、師匠との仕事や祖父と過ごした時間があって、「漁師の孫という私だからこそ、できること、やるべきことがあるんじゃないか」って、使命のようなものを感じるようになりました。

だって、人生をかけていい魚を追っている漁師の生活も、魚をうまく料理できない家庭の現実も、私の立場だとその両方が分かるから。だからこそ、つなぎ役になれるんじゃないか、って思うんです。そこが私の目標です。

 

地魚BANKの取り組みは、「地元の魚の価値を高めたい」という軸がしっかり通っていますよね。食べる側の人と現場をつなぐ活動は、すごく重要だと思います。しかも、漁師の営みを中心に考えてくれている。決して値切らない姿勢とか、「雑魚」と言われるような魚も上手に活用しようとされるところとか、漁師の家族という立場からも、料理研究家という立場からも、すごく勇気づけられる活動です。

 

私自身は、これから何を一番やりたいかって考えると、まずは子どもたちに伝えたい。将来の地域を引っ張っていくのは子どもたちだから、とても大切な種まきだと思うし、自分も楽しいですしね。以前は、福岡市の長浜鮮魚市場で、仲卸の方たちと親子魚さばき教室を毎月やったりしていました。糸島市内のコミュニティセンターでも、放課後に学校から来れるような子どもの料理教室を始めたんですよ。

 

「子どもは魚嫌い」って話をよく聞きますが、私の経験上、本当においしい魚だったら子どもたちはおいしいって食べます。子どもたちが食べたがるものは、家族の方も買おうとされます。だから、子どもたちに伝えることは、家庭や地域にも波及効果があるなって思っています。

 

地魚BANKでは、価値観が合う仲間とたくさん出会わせていただいてます。その仲間の力も糧にさせていただいて、みんなと一緒に私自身の夢も形にしていきたいなと思います。

 

古材の森ディレクター/歴史研究家

有田 和樹さん

僕が馬淵さんと出会ったのは、JF糸島の直売所「志摩の四季」。毎朝、店の買い付けで通っていたんですが、そこで、いつも同じ時間帯に買い付けしてる馬淵さんと、だんだん顔見知りになって。魚のこととかも、教えてもらうことが増えていきました。

 

志摩の四季って、釣り好きの僕でも見たことないような魚が並んでることが、ときどきあるんですよ。「馬淵さん、この魚ってなんですかね」とか、そんなきっかけから、互いの仕事のことも話す機会が増えていったかな。

 

今、僕がディレクターを務めている古民家レストラン「古材の森」の建物は、糸島市の前原商店街にある、江戸時代からの邸宅で。だから、当時の料理を再現した御膳付きのウォーキングツアーとか、リアルに江戸時代を空想できるイベントもたくさん仕掛けてきました。

 

実は、僕は昔から空想が大好きで、子どものころは「恐竜の谷」と名付けた近所の崖で、太古の昔にタイムスリップしたつもりで夢中になって遊んでました。大人になってからも本気で“ごっこ遊び“がしたくって、歴史研究家になったような感じです。

 

僕の「本気でごっこ遊び」という生きがいと、馬淵さんの「食べる人と現場をつなぎ、地魚の価値を上げたい」という思いが初めて結びついたのが「ブラ加布里」というイベント。

「漁の風景を見ながら、地のものをみんなで食べたい」という馬淵さんの思いを聞いたとき、地域の昔の風景を妄想しながらやってみたら良さそうだなって思ったんです。ハマグリや牡蠣で有名な、加布里漁港と周辺を参加者とウォーキングツアーして、地のものを食べて…という企画でした。

以降も、漁師さんや漁業関係の方たちのトークショーを聞いて地魚御膳を食べる「地魚博覧会」や、船越漁港をフィールドにした「ブラ船越」というイベントなど、地魚BANKの参加型イベントは、企画から一緒に関わらせていただいてます。

 

一般的にはブルーツーリズムという活動になるのでしょうね。ただ、僕たちは活動の軸として「地域の歴史や営みを知ってもらう」という部分を、かなり大事にしてきています。

 

なぜなら、僕も馬淵さんも、やりたいことは「地域に根を張って生きる人たちが主役になる、地域磨き」。今の糸島は、ブームとも言われますが、景観や環境の素晴らしさを求めてたくさんの人たちが移住したり、訪れたりされています。僕は糸島育ちなので、ここ数年の変化には驚いてます。大きく人の流れが変わりました。もちろん歓迎なのですが、いわゆる観光ガイド本に載るような“魅力“は、糸島のほんの表面。そこだけが取り上げられると、まるでアミューズメントパークになったみたいな違和感があるんですよね、正直言うと。実態とかけ離れたふわふわした感じ、というか…。

地域のアイデンティティーを守っていくこと、高めていくこと。豊かな社会を考えたとき、そこがすごく大事だと感じています。その土地で代々営まれてきた暮らしを土台に、ここだからあるもの、ここでしか感じられないものがあってこその、地域の魅力だと思うから。

 

そのために、土地の歴史や文化が欠かせないんです。そこを踏まえてないと、地域に入っていけないし、アイデンティティーも失われてしまう。そう危惧してるから、僕は歴史を伝える仕事をさせていただいているんです。地魚BANKの活動は、それを「魚」でやっているだけで、土台の考えは一緒なんですよ。

 

馬淵さんは熱血サッカー男で、僕は1人での釣りや歴史書の読書が好きな人間で。タイプは全然違うんだけど、価値観が一致して同志と言える間柄になっているのが、面白いなあって思います。2人とも、やりたいことはたくさんあるし、やるなら常に全力なんですが、なにせ不器用だったりするので、自分たちでは「いつまでも大人になりきれない、ピーターパン症候群やね」と言って笑ってます。

 

僕も、地魚BANKと関わる前までは、糸島出身なのに漁師さんと話す機会もなかった。水産関係から歴史にアプローチする機会をいただいたこのご縁に感謝しつつ、これからも、より本質的な地域磨きをお手伝いできるように、努めたいと思っています。